こんばんは!
遅い時間のアップで申し訳ないです
今日は、お時間を少しいただいて、読んでいただきたいレポートです
はじめに申し上げますと、とても長いです
ですので、2つに分けてアップいたします
このレポートは、私が事務局員をしているLOVE SAVE JAPANが支援している
福島県南相馬市にあります青葉幼稚園へ訪問した際のものです
10月28日の夜に出発し10月29日の楽つみ木広場にお邪魔しました
このつみ木広場を開催するために皆様からの募金を使わせていただいております
10000個のつみ木で遊べるこのイベントは
園児からも先生からもとても喜んでいただいておりまして
今後も必要とされる限り支援していきたいと思っております
それでは長い文章ですが
どうぞお読み下さいませ
そしてもし共感・ご賛同いただけましたら
各所に置いてある募金箱にお気持ちをいただきたいです
以下レポート
福島県南相馬市青葉幼稚園での楽つみ木広場開催レポート
○開催日 2014年10月29日
○報告者 LOVE SAVE JAPAN in YAMANASHI 堀内(虹子)
はじめに
今回のレポートは、開催直後に書き上げたもので、時系列が前後する部分や、まとまりのない表現があります。しかし、後で綺麗な表現に置き換えるよりも、その時の気持ちのままの文章のほうが伝わると判断し、そのまま皆様にお届けいたします。読みにくいところはご勘弁下さいませ。
私が福島県南相馬市まで行こうと決めたのは
青葉幼稚園での楽つみ木広場開催の29日の前々日、27日でした。
楽つみ木を持って園を訪問してくださっている「恵むの杜(えむのもり)」の阿部恵さんに連絡をしたのですが
思いがけず、出発を躊躇する内容の返信をいただき、出発前日ギリギリまで迷っていたのです。(前泊する予定だったので出発したのは28日)
その内容とは、
途中立ち入り禁止区域があったり、人っ子一人いない飯館村を通ったりと、まだまだ普通ではない状態ですので、というものでした。
LOVE SAVE JAPANの活動に参加してから、特に現地の情報には注意していたつもりの私ですが、これは正直こたえました。
こたえた、というのは、結局私は遠くにいる人間にすぎないのだなと実感したからでした。
ショックでした。
テレビやネットで見ていることが、福島にいる人にとってはそこにある現実なのに、いざ私がそこに赴こうと思ったら、それは普通ではない体験を意味するということなのです。
「対岸の火事」
という言葉が私の頭をよぎりました。
しかしそれでも私を決意させたのは、私が抱いた恐れとか無知という実感を含め、たくさんの人に福島の現状と、楽つみ木広場の開催が子ども達に何をもたらすのか、この目で確かめたことを知ってもらいたいという思いでした。
28日の夕方に、友人に見送ってもらって、夕飯まで持たせてもらって、郡山に向けて出発しました。
中央道から圏央道、一般道、それからたくさんのトラックが走る東北道をひたすら走りました。
当日予約で入れたところは一軒だけ。
郡山駅近くのそのホテルでは、原発事故によって居住出来なくなった富岡町の誇りである桜モチーフを、草木染めしたものを、女性客にプレゼントするという支援をしているとのことでした。
ここはまだ、郡山。それでも胸が締め付けられる思いです。
地元福島の県民も、避難地域のかたの支援をしていることを知りました。
翌日、郡山から二本松インターチェンジを目指します。
原発事故以前からも陸の孤島と言われていた南相馬市は、郡山から2時間以上かかる場所でした。
二本松から南相馬へ抜ける山道。ナビで見てもクネクネとした細い道がわかります。
センターラインのあるところ、ないところ、途中トラック同士がすれ違うのには狭すぎるカーブなどありました。
山道をこんなにも運送用トラックが走るということは、それだけルートが限定される場所へ向かっているんだなと実感しました。
山梨の里山と良く似た美しい風景。紅葉が始まり、静かな里山。
しかし、飯館村に入ると、異様なものが目に飛び込んで来ました。
田んぼ、民家の軒先、裏庭、閉店した店の駐車場、あらゆるちょっとした広いところに置かれた黒い大きな不気味な袋。
そうです、除染のため削られた表土が入った、放射性廃棄物の袋です。


愕然とする量です。羽毛布団を出すと、一抱えくらいありますよね。それの倍くらいはあるんじゃないかという大きさのものが、たくさんです。
住人はいません。居住出来なくなった土地です。
南アルプス市にいる牛の福ちゃんと島ちゃんも、ここから避難して来ました。
通りの両側には牛の絵やステーキが描かれた看板がいくつもあって、牛舎もところどころに見受けられました。
少し走る度に片側交互通行、その理由は、除染作業です。
歩く人はほとんどが、作業服に覆面のように顔を覆う布を巻いた除染作業員、行き交う真新しい白いトラックは除染のために新しく購入されたものでしょうか。
山梨で生まれ育ったひとなら容易に想像がつくと思います。思い浮かべてみてください。
随分長い距離コンビニもないような里山で、おじいちゃんおばあちゃんも歩いていなくて、農作業する人もなくて、たんたんとトラックが行き交う光景を。そこら中に「除染作業中」というのぼり旗がある光景を。
私のふるさとに、大きな地震が来て、事故が起きて、ある日突然ここから出て行きなさい、ここに住んではいけないと言われたら。目に見えないもので美しいものが汚されて、自然に手を触れることも許されず、思い出の品を持って行ってもいけないと言われたら。
何度も別の場所で言いましたが、飯館村から南相馬へ続く道の途中は、御坂峠から、富士山へ向かう道にとても良く似ているのです。
あんなに美しい場所が、私たちから奪われたとしたら。
そう思ったら涙が止まらず、サングラスの下の部分はビタビタでした。
泣けて泣けて、どうしようもなかったです。
ここは、たくさんの誰かの、ふるさとなのに。

南相馬市は穏やかな、至って普通の地方の都市でした。
想像よりも栄えている街でした。
人々は普通の暮らしを営んでいるように見えました。
住宅や店舗のある一角に青葉幼稚園はありました。
その先は少し上り坂になっていて、山というか丘のような場所に続いていました。
正面玄関がわからなかったので、一番近い部屋を覗くと、園児の賑やかな声が聴こえて来ます。おっと、結構たくさん園児がいるんだなと思って近づくと、
「早くつみ木の順番来ないかなー!」「順番だからねー!」という声がします。もうそこで、泣いてしまいました。
つみ木で遊ぶのを楽しみにしてくれているんだなーって。
あー、この声を山梨に持ち帰るために私は来たんだって。
恥ずかしながら震え声で園児に挨拶をして先生がたの居場所を訊ねると、先生が出て来てくださって、案内してくれました。
前日出来上がったLOVE SAVE JAPANのロゴTシャツを着ていたので、すぐにあーっ!遠くからお疲れさまです!と言って下さいました。
楽つみ木広場の会場の部屋では、年小さんと未満児さんが、キャッキャキャッキャと、歓声をあげてつみ木で遊んでいました。
阿部さんが子供たちの中で、一緒につみ木をしていました。
こんなに幸せで明るい光景を、私は想像していなかったのです。
みんな夢中です。
未満児さんの時間はすぐに終わってしまい、お部屋に帰るよう促されます。みんなが阿部さんに、ありがとうのご挨拶をしたり、握手をしたり、ハグして帰ってゆきます。
「また来てね!」「暖かくなったら、また来るからね!」と約束をして小さな子たちはニコニコしながら帰ってゆきます。
年小さんたちは新参者の私を見つけると、「せんせー、見て見て!これ私が作ったのー!」と次々声を掛けてくれました。
先生じゃないんだけどね(笑)ありがとうね。
一緒にやろうよ、手伝ってよ、こっちも見てよ、すごいでしょ!と、普段大して子供に人気のない私が引っ張りだこです(笑)
もう、ダメでした、涙腺が崩壊しました。
皆さんに募金いただいたお金で開催している楽つみ木広場は、こんなにもたくさんの園児の笑顔を生んでいるんです!皆さんにお見せしたいです!と叫びたい気持ちでした。
どうもいつもありがとうございます!子供たち、とても喜んでいます!と田村先生がおっしゃいました。
田村先生は、LSJの前田代表が園への取り次ぎをお願いしているかたです。
こちらこそ、の、ありがとうございます、が詰まって言えませんでした。
私には子供がいませんので、子供たちにお付き合いするのは苦手でした。姪っ子が生まれて初めて、子供が愛おしい宝物なんだと思えるようになるまでは。
そこにいたのは血縁でもなく、友達の子供でもなく、初めて逢った子供たちでしたが、私をあふれる幸せで満たしてくれました。
つみ木はお友達、優しく優しく遊んであげるんだよ、と阿部さんが声をかけると、素直に、優しく扱う子供たち。なんて可愛らしいんでしょう。
運動会で感動して泣いてしまう親御さんの気持ちが少しわかりました(笑)
年小さんがお片づけをして、それはそれは見事に規律正しく行動して、ありがとうのご挨拶をしてくれました。
そして、私を、「虹子さん」と先生が、手話の虹の手つきで紹介してくださると、子供たちが同じ動作で「虹子さん」と繰り返してくれました。
あとで田村先生に伺ったのですが、原発事故後戻って来た園児が少なく1クラスだった時に、希望という意味を込めて、にじぐみさんを作ったそうです。
また、泣けちゃいました。
年中さんと年長さんの時間になりました。
さすが、中先輩(年中さんをこう呼びます)と大先輩(年長さんをこう呼びます)、作る作品がダイナミックで、より具体的です。また、恥ずかしがりやの子が少なくて、さっきよりももっと人気者になれました。
阿部さんのお手伝いでいらしていた新川さんに抱っこされないと一番上に届かないほど大きな作品を作った子、よく崩れないで積んだなあというバランスで作っている子、先生と一緒に中世ヨーロッパの城壁のような大作を作っている子、それはそれは、驚きの連続です。
大人の発想力など遠く及ばない、子供が持つ大きな大きな力です。
子供が持つ大きな力はやがて大人を元気にし、未来への望みを捨てない光になると思いました。
後にFacebookに南相馬在住のかたからこんなコメントをいただきました。
「子供たちの笑顔は、南相馬市の大人達の希望であり、宝です」と。
本当におっしゃる通りだと、今は心から感じています。
この笑顔を山梨の人たちに伝えることが出来れば、可哀想とか、気の毒にという悲観的な感情ではなく、笑顔を忘れないで欲しいとか、元気に大きくなって欲しいという、応援する気持ちが込められると思いました。
私が今ここに書いているレポートには、悲観的な表現も含まれています。
それを承知で、そのことも含め、お伝えしようと思っています。
園を後にしてから案内してもらった海岸線近くや日高町には、遺構のような津波被害の跡や、地震の被害そのままが多くありました。
阿部さんと新川さんからは、報道されない生々しい話もうかがいました。
そこには補償の問題、心の傷の問題、物理的な障害、色々なことが存在していて、それは正直私一人が消化して持ち帰れるほど軽いものではありませんでした。
重すぎますよ、と苦笑いで申し上げました。
それほどに、福島の人々はいまだ苦難の中にあり、またそれが私たちにあまり知らされていないということは、どれほどの我慢強さであることかと思うのです。
私は原発再稼働反対のデモに参加したことがあります。
しかしあの時のように今声をあげているかと言われたら、NOです。
せめて、原発を再稼働させようとしている政党や、我が身の保身や金のことしか考えていない人間、権力にひれ伏す人間を地域の代表として送り出さないこと、それくらいの意思表示はせねばならないと思うのです。
青葉幼稚園でのフィナーレは、阿部さんによるつみ木作品のライトアップでした。中先輩と大先輩だけのお楽しみだからね、小さい子たちには内緒だよ!の声と同時に照明が消され、カーテンが閉められました。
筒のように積み上げられた作品には、真ん中にライトが差し込まれ、まるで外国の素敵なホテルのようです!
誰が作ったのかなー?はーい!という掛け合いをしながら、次々に作品たちがライトアップされてゆきました。光が揺れる度に、子供たちから可愛い歓声があがります。綺麗だねー!すごいねー!先生たちも感激の様子でした。
楽しい時間はすぐに過ぎ去るもので、あっという間にお時間です。
中先輩と大先輩は貫禄を見せ、お片づけもあっという間。制限時間内に綺麗に箱におさめてしまいました。
そして私たちへのサプライズ。
園児たちが、私たちへのありがとうの歌を歌ってくれたのです。
あまりの驚きと嬉しさと感激で、動画が撮影出来ませんでした。そしてもちろん泣いてしまいました。ありがとうという言葉は、人の心に染み渡り、心を動かすのですね。
こちらこそ、みんなと遊べて楽しかったです、ありがとう!!!
園児たちは少しの間ざわついたりしていましたが、田村先生が「ひとの話はどうやってきくんだっけ?」と問いかけると
「目で見て、耳で聴いて、心で感じます」と揃って答えました。小さな胸に、小さな手をあてて。
私たちの話を聴こうと、こちらを真剣に見つめるたくさんのまなざし。
この子たちが楽しく過ごす楽つみ木広場の機会を、もっとプレゼントしてあげたいと思った瞬間でした。
全員と握手、またはハイタッチをして、ありがとうを交わして、また来てね、また来るねの約束をして、さようならをしました。
園長先生のお取り計らいで、園で昼食をごちそうになりました。
そこでは、田村先生と、阿部さん、新川さんのお話をゆっくり伺えました。
地震や津波で亡くなった園児はいなかったけれど、避難を余儀なくされみんなバラバラになってしまった寂しさ、しかし戻って来て欲しいと言えない辛さ、戻って来たり避難して新たに入園したりした園児に対して抱く色々な思い。
青森に避難して、数ヶ月前に南相馬に戻った新川さんが感じる、避難した人としなかった人、戻って来た人と戻って来ていない人とのそれぞれの心の隔たり。
原発事故とその後の政府の対応に対する怒りや疑問。福島の人はもっと声をあげないといけない、みんな我慢しすぎているとおっしゃっていました。
また、現在の園児たちには震災当時の記憶がほとんど無いため、どうして避難しなければいけないのか、説明が難しいともおっしゃっていました。
震災発生の時は、園バスが大きく揺れ、安否確認をしようにも電話が繋がらず、避難所で泣きながら電話を掛け続けた、というお話もして下さいました。
そのお話の間中、涙が止まらなくて、私が途中飯館村で感じたことをお話した時には、先生も泣いていらっしゃいました。
お昼を終え、園児たちに熱烈なお別れのご挨拶をいただいて青葉幼稚園を後にしました。私の胸にかかっていた石のペンダントを握って、この石はなんていうの?ラブラドライトって言うんだよ。ラブラブライト?惜しいね、でも、ラブラブのほうがいいかもね、なんて会話を交わし、また来るからね、とさようならしました。
その2に続く




